
講師紹介

宮城県富谷市 黒川郡大和町 仙台市 ピアノ教室
花音~Canon~

Nao Kajiyama
梶山 奈緒
梶山 奈緒


History1
ピアノとの出会い
母の実家、福岡県旧山田市(現嘉麻市)で生まれ、広島県呉市で育つ。
1歳で父の転勤先茨城県水戸市に引っ越し、3歳で広島県呉市に戻る際、 お友達が作れたらという母の願いで、ヤマハ音楽教室に入る。
入ったコースは、年度途中の為、3歳から小学3年生までのエレクトーンのグループレッスン。
当然始めはついていけず、母の手を握り、悔し涙をこらえたことも。 家では一人で練習を進め、その年度が終わる頃には、クラスで一番上手くなっていたそう。
年長に上がる時のクラス決めで、来年度のコースの説明を聞く。
字が読めなかった私は、いくつかのコースがある中で、ピアノしか覚えられ なかった。それでピアノを選び、ピアノを始めた。
History2
年子の弟がいる、しっかりしたお姉ちゃん
小学生になってからは、母が以前勤めていた学校の教え子の先生にピアノを
習い始める。
1時間じっくりピアノと聴音をみて頂き、3年生からは1年に1度地元の
コンクールを受け受賞する。
小学6年生の時に受けたコンクール、審査員には外国の先生もいた。
その中で大好きだったモーツァルトの「きらきら星変奏曲」を弾いた。
この時は、予選通過は叶わなかったけれど、高名な先生に聴いて頂けたこと、
その審査員の先生方が間近にいらっしゃる、独特の張りつめた空気感が
忘れられない。
ブルグミュラーの25の練習曲が大好きで、修了した後もずっと弾き続けていた。
題名から広がるイメージ、美しいメロディー、様々な曲想、1曲1曲の世界に
入り込み弾けることがとても楽しかった。
勉強が苦手な弟は、毎日宿題を母に教えてもらっていた。
毎回雷を落とす母を見て、弟が興味を持つ例えを出しながら教えればいいのにと
思う。私が勉強を教えると、弟は笑いながら楽しく宿題をしてくれた。
このことが私が「教える」仕事をする原点になったと思う。
History3
中学生になり本格的にピアノを
小学校時代、ピアノと英語、水泳を習っていたが、中学時代の習い事は、 ピアノとソルフェージュ。
学校では指をけがしないようにとテニス部に入る。
ピアノのコンクールは年に2回受けるようになり、地元で行われていた ベストピアノコンクールを受けた時のこと。
ショパン国際ピアノコンクールで受賞したばかりで審査員だった、 ジャン・マルク・ルイサダ氏(角田隼人さん・・かてぃんさんが師事)にサインしてもらう。
サインの入ったベートーヴェンのソナタの楽譜は宝物。 大作曲家の有名な作品が弾けるようになり、ピアノの楽しさが増していく。
History4
進路に迷う高校時代
ピアノを続けコンクールで受賞もしていたが、コンクールで思うような結果が出ないと落ち込み、ピアノをやめることが頭に浮かぶ。
高校2年生の時に、初めてコンクールで全国大会に進み、そのことが大きな自信になり、ピアノの道に進むことを決めた。
全国大会前にウィーン三羽烏の一人で、ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝の
イェルク・デームス氏のレッスンを受講する機会に恵まれる。
その時に演奏した曲は、シューマンのアレグロ。
先生のシューマンに対する愛情、そしてレッスンへの情熱は凄まじかった。
大学生の時に受けた、ショパンのポロネーズのレッスンでは、ショパンを演奏する時に大切な3つのことをドイツ語で楽譜の裏表紙に書いて下さった。
小学5年生から習ったソルフェージュの先生はヴァイオリンが専門。
時々、遊びで伴奏させてもらえることが楽しく、伴奏の楽しさを知る。
History5
音楽が楽しくなった大学院時代
今まで教えて頂いていたことを忠実に直すようにしていた高校時代から、自立して音楽を作らなくてはいけなくなり、悩みまくる。
大学、大学院時代の恩師の先生は、芸高を中退し、フランス、ドイツに長く留学 され、コンラート・ハンゼン氏に師事されていた先生。
先生のヨーロッパ仕込みの考え方に大きな影響を受ける。 副科チェンバロを履修し、バロック音楽の楽しさを知る。
大学院に合格し、選曲、時間割に自由さが増え、一気に視界が開けたように 楽しめるようになる。 2台ピアノ、室内楽、現代音楽・・どの授業も楽しく、アンサンブルの機会も 増え、ピアノが今までで一番楽しくなる。
練習曲で有名なツェルニーの子孫で、ショパン国際ピアノコンクール優勝者の ハリーナ・ツェルニー・ステファンスカ女史のレッスンを受講する機会にも 恵まれる。 フランスに講習会を受講しに行き、多国籍の受講生との交流が刺激になる。 2台ピアノを教えて頂いた先生から、 「音楽を通して 平和の使者になりますように。」との言葉を頂く。
History6
音楽を仕事として
初めてレッスンを行ったのは、高校生の時。
近所の5歳下の子が、習っている先生が恐かったことから、私が教えることに。
その子を連れて来てくれていたお姉さんに、教え方を褒められたことがとても
嬉しかった。
学生時代からは、地元の楽器店に勤めた。
大学院生時代に受けた採用試験では、「その音がほしい。」と言われ、大学院修了前から音大付属音楽園の講師になる。
年の近い生徒さん達との会話は楽しく、全員がソルフェージュの授業を受けているので、ピアノのレッスンもスムーズ。
ソルフェージュ教育の重要性を認識する。
若く勢いがあり、体当たりで指導していた広島でのレッスン時代。
個性的な生徒さんとのレッスンは、日々刺激的で、とても良い思い出。
自宅でのレッスン生が増え、お断りする状態が続いた為、勤めていた付属音楽園をやめ、自宅でのレッスンに専念することに。
1963年製のスタインウェイを購入。
練習時間、レッスン時間が特別なものになる。
音楽園、自宅でのレッスンを始めてから13年、生徒さんの成長が形になって来たところで、結婚の為転居。生徒さんとのお別れは辛かった。最後のレッスンで、小学6年生の生徒さんが私に内緒で練習して弾いてくれた曲、サティのジュ・トゥ・ヴ(あなたが好き)。泣きながら演奏を聴く。
レッスンと並行して、演奏活動も積極的に行う。
卒業後のリサイタル、管楽器アンサンブルでのコンサート。
また、学生時代から伴奏を多く経験していた為、同級生、先輩、後輩の伴奏の仕事に勤しむ。
コダーイ弦楽四重奏団とショパンのピアノ協奏曲1番を演奏したことはとても大きな経験になる。
声楽、管楽器、弦楽器、コーラスの伴奏、管楽器とのアンサンブルなど、演奏回数は100回を超える。
「音楽性に富み、時代時代をよく把握した演奏。」とのお声を頂く。
History7
結婚して宮城県へ
結婚を期に宮城県に転居。
始めの2年間は住まいの関係でグランドピアノのない電子ピアノでの生活。
主人以外知り合いのいない環境、広島との風土の違い、初めてのピアノのない生活、仕事をしていない生活は予想以上にきつかった。
電子ピアノのみで練習している時は、グランドピアノが恋しくてしかたなかった。
History8
出産、育児に奔走
新居が完成し、ピアノを広島から運べることになる。
宮城県でのワンオペ育児で、練習時間はなかなか取れないが、ピアノと一緒に住んでいるだけで精神が安定する。
娘が生まれてからの1年はとにかく家事育児に必死。
調律師さんからの「赤ちゃんの潜在能力はすごいんですよね。」の一言で、
未就園児についての知識がないことに気付き、空いた時間は、全て育児の情報収集に費やす。
情報を調べては、できる限りの実践をした。
娘が1歳になり、ピアノ教室を開講。自宅で娘の育児支援をお願いしながら、レッスンを始める。リトミック講座を受講し、娘に実践する。
絶対音感、脳育ソルフェージュの指導資格を取り、娘に教えることで、その良さを実感した。
娘が小学生になり、乳幼児期に行った知育、リトミック、絶対音感の効果をより実感する。
History9
コンクールへの挑戦
娘が小学2年生になると、今までは、ピアノの先生として取り組んでいた コンクールに、親プラス先生として取り組む。
月に一度、憧れの先生のレッスンを受けながら、毎日練習に付き合い、 指導をする。 親として日々練習に付き合う大変さ、ピアノの練習は大変だが、日々加速度的に 進歩する子供の可能性。
きっかけ次第で、意識が劇的に変化することは大きな驚きだった。 自分の経験をお伝えしたい気持ちが強くなる。
History10
自分も挑戦
娘、そして生徒さん達も、自分の想像を超えて大きく成長する中で、大人の自分の可能性ももっと広げたいと思う。 興味ある講座をかたっぱしから受講。
コンサート、セミナーを聴きに遠方にも出かける。
演奏を続けられるように、これからも指導と演奏の学びを継続していきたいと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。







会員・資格
Membership/Qualification

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日本こども音楽教育協会 絶対音感、脳育ソルフェージュ、おひさまメソッド認定講師
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全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)会員、日本ピアノ教育連盟(JPTA)会員
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リトミック研究センター 初級、中級、上級コース受講。